瀕死のキリスト
キリスト教信者である両親の育んだ家庭で育った本郷は、日曜学校などで子どもの頃から両親が所属した北辰教会(現北一条教会)に通っていました。本郷にとって身近な存在であったキリストの像を彫刻のテーマとして制作するのはごく自然のことでした。
樟(クス)の木でつくられた《瀕死のキリスト』の裏面には、本郷のサインとともに1941~48年と刻印しています。本郷は36歳から43歳の戦中戦後の混乱期、モデルや材料の調達など制作を思うようにできなかった頃に制作したことになります。一方で、同じ時期である1944年の秋には、唐招提寺にこもり鑑真和上像を模刻しています。
木に黒く着色したキリストの頭像は、見る角度で表情が変化します。正面から見ると、受難者キリストの苦悩と人間への深い悲しみ窺えます。本郷は、同時期にもう1点キリスト像《受難者』を制作しています。その後、最晩年に再びキリストをモティーフとして、『磔刑のキリスト』を素描で残しています。その間の30年余りキリストをテーマとした作品は制作していません。
その後、《瀕死のキリスト》は東京国分寺市に池辺陽設計の日本基督教団国分寺教会の会堂が完成した1951年に牧師であった深田種嗣氏に贈られました。本作は、礼拝のとき会堂の前方に置かれたこともあったと深田氏の息子である未来生氏が語っています。未来生氏が牧師を務める京都上賀茂伝道所の復活節礼拝に使われていましたが、1992年に未来生氏より美術館にご寄贈いただきました。