重子像

1930年、本郷新は25歳の時に画家俣野第四郎の妹、温子と結婚しました。前年には、母のスミス女学校の同期生である河合道子が創立したキリスト教主義による東京恵泉女学校に絵画教師として職を得ています。

結婚によって本郷は二人の息子を得ました。同じ頃、彫刻家としては、国画会の会員になり、その後造型彫刻家協会の創設(1936年)や、新制作派協会(現在の新制作協会)の彫刻部創設(1939年)の中心メンバーとなり着実に実力をつけていきました。公私共に充実していた矢先に日本は長い戦争に入り、思うように制作ができなくなりました。また、発表の場も限られていきます。

そのような状況の中、1944年に妻・温子が結核のため36歳で亡くなりました。この年の秋、戦災の消失を恐れた奈良の唐招提寺が鑑真和上像の模刻を本郷に依頼。模刻をするため本郷は唐招提寺舎利堂の北隅、東堂の一室で起居して制作に専念しました。

同年、本郷はお見合いによって函館出身の小林重子と結婚しました。重子は、戦前に共同通信社シンガポール支局長の小林猪四郎と結婚していました。シンガポール時代は、藤田嗣治とも交流があったそうですが、終戦間際に帰国した後、夫を亡くしていました。1947年に制作された《重子像》は、終戦後初めて開かれた新制作展に《婦人像》として出品されました。モダンな髪型と柔和に微笑む女性像です。

重子をモデルにした作品は、油彩、素描、ペンダントヘッドがあります。これらの作品は、二人の睦まじい関係を伝えています。1980年2月13日に亡くなった本郷を看取ったのは重子です。その後、重子は、1993年9月9日88歳で亡くなりました。葬儀に飾られていた遺影は、本郷が描いた《新聞を見る重子夫人》です。

重子は、1952年5月発行の月刊『栄養と料理』に「私の料理」という記事を書いています。

冒頭「昨年の夏、ある婦人雑誌に外来料理を書いてから、何時の間にか料理専門家にされて、戸惑う事があります。」と書かれ、「鰊の薫製酢漬」「豚のにんにく焼き」「レバーのバタ焼」などその当時としては珍しい西洋料理を紹介しています。重子の西洋風な雰囲気を伝えています。