嵐の中の母子像

どのような苦難にあっても我が子を守る母の強さ、たくましさが見る人に強い印象を与える《嵐の中の母子像》は、1953年、本郷新が47歳の時に制作した作品です。

制作の契機となったのは、前年1952年の海外旅行でした。本郷は、1952年12月から翌年4月までウィーンで開催される第1回世界平和会議に出席するため、初めて海外に行く事になりました。

出国に手間取り、結局会議には間に合いませんでしたが、フランス、オーストリア、チェコスロバキア、ソ連を訪れ、美術館見学や各国の彫刻家、画家、評論家などと交流しています。

多くの西洋美術に触れ帰国した本郷は、逆により日本的なものである仏教美術を求めて京都、奈良を訪れました。本郷は、法隆寺の百済観音、薬師寺の金堂薬師三尊像など、隋、唐の影響を消化して日本独特の造形美に到達した白鳳・天平時代の仏像に惹かれます。

1942年に発行した本郷の著書『彫刻の美』(冨山房)でも、白鳳・天平仏は「他のどの時代の仏像よりも気持ちの上の広さや、高さ、深さを持っている」と書いています。

西洋美術と東洋美術を本郷なりに消化して制作したのが《嵐の中の母子像》でした。本郷は、西洋の愛と慈しみの象徴としてのマリアとキリスト像とは違う母子像を作ろうとします。

また、「仏教美術とも違う、現代の日本における母子像とは何か」を探求します。そして、たどり着いたのが、戦後日本の母と子が置かれている厳しい状況を造形化することでした。

完成した作品は、1953年秋の新制作協会展に出品。その後、1959年第5回原水爆禁止世界大会広島大会を記念して《嵐の中の母子像》の石膏像が広島市に日本原水協を通して寄贈されました。

石膏像は、婦人団体が募金活動をして鋳造費を集め、制作してから7年後、広島市民からの熱い思いが実り1960年、広島市平和記念公園に設置されました。

この作品について本郷新は、次のように語っています。

「この作品のモティーフは、広島の惨害です。胸に乳飲み子を抱きかかえ、背にもう一人子どもを背負って、立ち上がろうとする母子の必死の姿は、まさに突進の形です。普通母子像は、暖かい愛情を表現するものですが、《嵐の中の母子像》は、いつ離れ離れになるかも知れぬという不安と、非常な事態の中での愛情の危機、もしくは極限の状態です。この、とことんまで生きようとする母子の像を通じて人間の生命の尊厳を象徴づけたつもりです。だから単なる母子像というより、母子二代にわたる悲しみ、二つの世代に横たわる悲劇の記念碑というわけです。」