石川啄木像

石川啄木は「死ぬ時は函館で死にたい」と手紙を残すほど函館を愛していました。そして、啄木ゆかりのものがないのはいかにも残念と思う人々が、詩にも歌われている函館の砂山付近に啄木像を設置しようと考えました。それを知った本郷は、啄木像制作は自分の夢の実現でもあるとして、ブロンズの材料費だけで制作を申し出ました。制作から半年ほどで原型が完成すると、1958年10月18日、啄木一族の墓のある函館山の南東に位置する立待岬を遠望できる大森浜に《石川啄木》像が除幕されました。

本郷の啄木の肖像彫刻制作の夢は、青年時代にまでさかのぼります。啄木の詩を読み、啄木の詩歌の底流に流れる「北」「寒」「貧」などの感覚に共感し、怒り、悩み、悲しむ人間・啄木に関心を惹かれました。啄木への興味は、「いつかこの男の像をつくってみたい」という彫刻家ならではの熱意に結びついていきます。制作の機会を得たことを「20年来の夢がかなった」と、53歳の本郷は強い意気込みを当時の新聞に語っています。

本郷にとっての本作は、単に本人に似せた肖像彫刻ではなく、啄木の人間性に迫るものでなければなりません。そこで、函館の啄木像を「考える人間・啄木」にしました。社会や生活全てに抗い苦悩しつつ思索する22歳の啄木には、絣の着物に袴、素足に下駄履き、手に詩集を持たせ、低い石に腰をおろさせ物思いに耽ったたたずまいをしています。本郷の全ての思いが、この姿に凝縮しています。

台座には、「潮かおる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ 今年も咲けるや」の歌が刻まれています。

《石川啄木》像が設置された翌年、建設期成会から市に寄付された像周辺の約500平方メートルの敷地が整備されました。歌にちなんだハマナスを植え、ベンチを置いて観光名所にふさわしい「啄木小公園」になったのです。

函館の啄木を坐像にした本郷は、肩をいからし、腕を組み憮然とした表情をしている立像をつくりたいと1964年頃書いています。それには、「私の中の啄木像は、こういう像(立像)をつくらないと、おしまいにならないのである」と結んでいます。本郷のもうひとつの夢は、1972年に啄木ゆかりの釧路で実現しました。

函館と釧路の啄木像は、本郷の中で永い年月をかけて熟成された思いをもとに制作されました。生涯を野外彫刻に情熱を注いだ本郷の一端が垣間見えるエピソードです。