勇払千人同心
千人同心は、徳川家康が江戸防備のため甲斐武田氏の家臣を配下に加え八王子周辺に配置したのが始まりといわれます。千人で構成されるので千人同心といわれました。
八王子千人頭(かしら)原半左衛門が半士半農の同心の二、三男対策として、1800(寛政12)年に幕府に願い出て100人を連れて北海道に渡り北方警護と開拓にあたりました。原半左衛門は現在の白糠町に、原新助は苫小牧市勇払にそれぞれ配下の50人を引き連れて入植しました。1カ月後には第2陣として15人ずつが到着、両隊は25丁ずつの鉄砲や刀、槍などで武装し、外国船の動きを警戒しながら自給自足の生活に入ります。
同心たちは営農に慣れていたとはいえ、北海道の荒涼とした原野と、厳冬の生活は想像を絶する厳しさであったとみえ、苫小牧市史によれば勇払隊65人のうち16人が2年間で亡くなっています。入植は、1804(文化元)年に断念され、同心たちは函館などに四散しました。
苫小牧市は千人同心の先駆的役割を高く評価して、1973年の同市開基100年を機に八王子市と姉妹都市提携を結びました。記念事業として本郷新に記念像制作を依頼して完成したのが《勇払千人同心》です。
本郷は、千人同心は「下級武士の姿として、いかめしくない、しかし凛然として寒地開拓への志向を示し」、「梅女に抱かれた幼児は、若き母亡き後の開拓の子孫であり、(中略)鍬や鎌が手渡されて、今日の大苫小牧市が生まれた歴史が象徴として凝固されることを願った」と制作意図を語っています。
公共空間に設置される野外彫刻は、設置者からテーマを与えられて制作するのが一般的といえます。本郷は、テーマをふくらませて記念碑にふさわしい造形にするため、彫刻作品だけではなくレリーフなど様々なモティーフ加え、構成や配置などを工夫しながら制作しました。本作も、開拓記念碑というテーマを市史のエピソードを交えて制作した本郷らしい作品です。